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【アラベスク】  第6章 雲隠れ (前編)



第2節 休み明け [6]




 美鶴と二人で、この日本で、静かに優しく生きていけれれば、それでいい。
 金は出させればいい。今まで僕をほったらかしにしてきた慰謝料さ。
 その胸に去来する疑問。
 父親がメリエムと結婚をし、男子が産まれれば瑠駆真は用なしだ。跡取り息子が欲しいというのなら、なぜその手を使わないのだろう? 黒人は、認められてはいないのだろうか?
 そもそも、ミシュアルは本当に跡取り目的で瑠駆真に付きまとっているのだろうか?
「ねぇねぇ? 三組に編入してきた小童谷(ひじや)先輩がねぇ」
 己の確信を揺るがす疑問に頭を振り、瑠駆真は甘い声音に眉をしかめる。
 今日は授業はない。HRが終わればお開きだ。
 早く終わらないかな。
 駅舎へ行って美鶴と対峙すれば、また罵倒されるかもしれないけど。
「ちょっとぉ」
 話を半分も聞いていない。それはわかっているのに、ずいぶんとしつこい少女。
 まぁ、明日からは通常授業が始まるのだ。午前中で終わる今日この日に瑠駆真をGETできれば、半日独占できる。
「あっ あなたも何とか言ってあげてよ」
 自分一人では無理と悟ったのか、少女は別の少女へ声をかける。だが――
「ごめんなさいね」
 声をかけられた少女は短く答え、いそいそと教室を出て行く。
「なぁに?」
 転入以来、目の色を変えて瑠駆真を追っかけまわしていた少女の一人。彼女にしては、ずいぶんと素っ気ない態度。
 首を捻る女子生徒に、別の少女が耳打ちする。
「彼女、四組の金本くんに鞍替えしたのよ」
「えぇ? いつ?」
「さっき」
「さっ さっき?」
 呆気に取られる態度に、少女は鼻で笑って腰に手を当てた。
「なんでも金本くん、三組の大迫美鶴と大喧嘩したらしんですってよ。もう四組も三組もその話題でもちきり」
 なんだってっ?
 思わずそう叫びそうになり、どうにか自分を抑える。浮かせそうになった腰もなんとか落ち着け、だが胸の鼓動は今だ早い。
 一方、瑠駆真の心情を代弁するかのように、傍らの少女が声をあげる。
「えぇっ! 大喧嘩っ?」
「コラーユ達にとっては、まさにチャンスってカンジよね」
「でっ でも、あの子は柘榴石(ざくろいし)でしょう?」
 少女が教室を出て行った方角へ目をやるが
「ふんっ こんな事情でさっさと鞍替えする子なんて、もともと柘榴石を名乗る資格もないのよっ」

 聡と美鶴が? 喧嘩? いつ? どこで? どうして?

 美鶴と聡が仲違いをしてくれるのは、正直ありがたい。だが―――
 喧嘩って、いつの事だ? 今朝学校でか? それとも、夏休みの間に?
 夏休みの間、自分が美鶴と逢えない時間に、聡と美鶴は会っていたのだろうか?
 想像すると、嬉しさよりもむしろ焦りが瑠駆真を覆い尽くしていった。





 自分で鍵を開けて入るのは、とても久しぶりだ。
 なぜだかとてもドキドキして、扉を開ける手が震える。
 ゆっくりと、一歩中へと足を入れた。
 九月一日。まだ残暑は厳しい。
 駅舎までの道のりも暑かったが、扉を開けた瞬間に襲い掛かる熱気に、美鶴は思わず眉をしかめた。
 埃っぽくって、ネバつくような空気。
 壁に()め込まれたガラスは、どれも開閉できない。空気も人間も、出入りできるのは一ヶ所だけ。
 纏わりつくような空気の漂う世界。まるで異空間に足を踏み入れてしまったかのよう。背中から全身にかけて、鳥肌が立つ。
 霞流さん。
 高鳴る鼓動を必死に抑えながら、腰を痛めた年寄りのようにぎこちなく、椅子に腰を下ろしていった。
 好きなのだろうか?
 きっと、もっとずっと以前からそんな疑問は胸の内にあった。だが、気付かなかった。
 いや、気付いてはいたのかもしれない。ただその存在から、目をそらしていただけ。
 もう誰も、好きになることはないだろう。
 そう確信していた。
 自分がこの人生において、好きになったのは澤村という人間だけだと。
 ………
 そこで瞠目する。
 なんか、これだとまるで自分の中で、澤村という異性がひどく特別な存在みたいではないか。
 生涯ただ一人好きになった人―――
 えぇぇぇぇぇぇっ! そんなっ!







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